産經
新聞の「主張」に“漢字でしゃべっておられる方”がいらっしゃるらしい。
──iza!──〈【主張】読み書きの課題 漢字力が育てる読書好き〉──iza!──〈【主張】国語力再生 漢字制限の見直しが急務〉基本的に
漢字は
中国の字で、
(1)
輸入時に音よみは
日本語の音にしてしまったということ
(2) 意味のにている漢字に日本のことばをあてはめたということ
が なされた。
同音異義語は(1)が原因であり、同音異義語の区別ができないから漢字をつかうというのは本末顛倒である。
中国語の母音と子音の種類は日本語よりも多いし、アクセントも変化にとんでいるので日本語で混乱するほどには混乱はない。漢語を日本語におきかえる努力が必要だろう。
漢字の音よみが50音にちらばっているわけではないことも同音異義語の大量生産につながっているようだ。国語辞典をみればわかるが、特定のオトのところのページが分厚い。
また、翻訳語など、新規に語をつくるときには漢字をくみあわせた語をつくるのをやめ、和語でつくることを考えた方がいい。漢字をくみあわせてことばをつくることにより、本来の日本語がうしなわれていったという面も否定できまい。
(2)により、意味によって文字をかきわけるようになった。
このことの弊害はおおきい。語彙力を貧困化する要因になっている。
たとえば、「聴いた」と かく とき、本人は「じっくり と きいた」と いう つもりで 「聴」と いう 文字を つかった と しよう。これが はなし ことば で あった とき と か、点字に翻訳された とき、「キイタ」と いう ことば が「聴いた」なのか「聞いた」なのか わから ない。かきて の かんがえ が つたわら ない のだ。
豊富な語彙をもっておれば、「みみ を かたむけた」とか「じっくりと きいた」とか「みみ に 意識を 集中させて きいた」とか「みみ を そばだて て きいた」の ように かく こと に よって かきて の いいたい こと が はっきり と つたわる のだ。
おくりがなの問題も(2)から生じている。活用語尾をおくるという原則では「止る」が「とまる」なのか「とどまる」なのかが区別できない。昭和48年の内閣告示で修正され、「止」の訓よみは「と」だけになり、「とどまる」「やめる」はかながきすることになった。そして、「行った」が「いった」なのか「おこなった」なのかが区別できなくなつた。それで、本則にくわえて、許容という曖昧さが、それこそ許容されてしまい、「おこなった」は「行った」でも「行なった」でもよいことになってしまった。
元来、ことばはオトであった。耳できいてわかるものであった。オトがさきにあり、文字はあとからつくられたものだ。いまでも、ほとんどのコミュニケイションはオトをとおしてなされている。筆談をするのはチャットのときくらいだ。
赤ん坊がことばをおぼえるのもオトからはいるのである。
オトでおぼえた語彙が豊富であれば、早急をソウキュウと読んだり、垂涎をスイエンと読むひともいまほど多くはなかったであろう。
英語やフランス語などおおくの言語は語単位で わかちがき をしているが、中国語は1文字1文字が語であるので文字の連続それ自体が わかちがき である。
日本語は、中国語を そのまま うけ いれて しまった が ため に、わかち がき を しない 習慣に なって しまった。
わかちがき を して おれ ば、かな が つづい て いて も よみ にくく は ない。
はじめて 遭遇 した とき に とまどう の は、なれて いない から だ。なれれ ば どうって こと は ない。
学校での日本語教育においては、英語教育で前置詞のつかいわけや
コロン、セミコロン、カンマのつかいかたを
教えるがごとく、助詞のつかいわけや、読点の使用法をきちんと教え、日本語を、厳密に、使えるようにするべきだと考える。
漢字を大量に使いたいとお考えの面々がよくいわれることに「漱石、鴎外の作品が原文では読めまい」ということがある。そういうかたがたは「源氏物語」や「枕草子」などを原文でお読みになられるんでしょうねえ。うらやましいことです。
ルビを活用するということには賛成だ。地名、人名など、知らなければ読めない文字には積極的にルビをつけてもらいたい。こうべ、かんべ、ごうど、全部が
神戸だ。かしわら、かいばら、どちらも柏原だ。なかがいち、なかがいと、どちらも中垣内サンだ。すみだ、かくだ、つのだ、どれも角田サンだ。日本人が日本語を読めないといわれて笑われるのもこういうケースだ。
また、執筆者が手で書けない漢字は使わないようにしようではないか。かな漢字変換のおかげで書けない漢字でも使用できるので、表外漢字が頻繁に使用せられる傾向がある。大抵のひとは読めないので、適当に読んでしまう。これが誤用を生む。
漢字の部品におなじ形状のものがあるからといっても、おなじ音読みをするとはかぎらないことも知っておく必要がある。さきにあげた「垂涎」の「涎」には「延」という部品があるがエンとは読まない。「漏洩」の「洩」には「曳」という部品があるがエイではない。
「集る」をなんと読むかという問題が
テレビ番組で出題された。「集まる」であれば「あつまる」だ。表外訓で読んで「たかる」だ。
このような「あて字」の知識をふやすよりも、もっと大事なのは「たかる」という日本語の語彙と意味を知ることだ。
漢字という中国からの輸入文字の知識をふやすよりも、もともとの日本語の知識をふやす方に力を割こうではないか。失礼、ちから を さこう では ないか。